むしゃくしゃしたときは美味しいものが食べたい

書くことないけど文章を書きたかったときの記事(リップクリームについて)がほんとつまらなすぎてなにこれって感じです。

たいへん心がささくれているので、美味しいものが食べたいです。あとお金がほしいです。

 

むしゃくしゃした気分のときは友川かずきを聴く最近。

こんな歳になっても怒りや憎しみを持ち、それを世に向けて出している人がいる、そしてそれで食べている、という事実にほっとする。そういう気持ちも持ってていいんだと安心する。

誰々は常にリュックに収まる荷物しか持たない、誰々は怒らなくて誰よりも優しい、という話をよくする友人がいる。その友人は彼らに憧れているようだ。その友人は物を多く持ち、感情の波が激しいので、そんな自分のことをあまり好きでないからそんな話をするのかもしれない。

最低限の荷物しか持たない生活をしていたり、人を怒らず優しく接したりできる人はすごいなあと思う。その話をする友人との出会いとは関係なく、わたしも一時期、そういう人たちに憧れて、物をなるべく捨てたり、人に怒る気持ちを捨てようとしたことがあった。試してみた。その結果、その生き方は自分には合わないと思った。

 

わたしの部屋は汚いので、そういう意味で物は多いのだけれど、捨てられないという意味ではなく、わたしはわたしの持ち物が好きだ。小説、漫画、DVD、ガチャポン、フィギュア、写真集、洋服、いろいろある。8畳の部屋にしては物が多い。たまにこれはいらない!と物を捨てることはあるけれど、書籍だけは捨てられない。これでも選びに選んで買っている。わたしは物が多いわたしの暮らしが好きなのでこれで良い。

 

わたしは感情の波が激しく、思い込みも激しく、また、人に舐められやすいため、その場では口に出さずともあとで腸煮えくり返って頭がどうにかなりそうなときがある(最近はそれほどでもない)。なので、怒る気持ちを捨てれば腸煮えることもなかろう、と思い、怒りを感じた時はそのことを分析してみたり、これで怒ってなんになると気持ちを静めてみても、まあ気持ちが煮えるときは煮えるんだよ。こいつ、絶対どうにかしてやるからな、という気持ちにだってなるんだよ。なるだけだけどよ。怒りを消す生き方もわたしには合わなかった。

 

怒りとか恨みとか、そういうマイナスな気持ちは良くないものだと思い込んでいた時期があった。エネルギーを食うだけで、それを感じる人間だから自分は程度が低いのだと考えていた時期があった。エネルギーを食うのは間違っていないけれど、それを感じるのは自分が人間だからであり、人として程度が低いというのは間違いである。だって、喜びや楽しみだけを感じるのが正しく人間であるっておかしいじゃんね。気持ちが悪い。

そりゃマイナスよりプラスの気持ちを多く感じる人の方が楽しい人生を送れるだろう。でもわたしはそういった性格ではないので、怒るし妬む。恨む。それを否定したら自分の形が消えていくようになったのでもうそういうことはしない。代わりに、その気持ちをエネルギー源に返ること、まともに受け止めずかわすことを覚えていく。

あと、怒った時はちゃんと口に出せるようにしたい。おまえが嫌いだ、って言いたい。その考えは気にくわない、って言っていいと思う。おまえの考えはおまえにとっては正しいかもしれないけど、わたしにとっては間違いなので、嫌いだ! 喧嘩が面倒なので相手が気に食わないことを言ったら、表面的には同意するか流すかするけど、そうするとあとで思い出して腹が立ってしかたがないので、その考えは嫌いだと言った方がいい。別に相手の人格を否定することが目的ではないのだから。相手が相手の言いたい意見を言うのなら、わたしだって同じように言いたい意見を言ったっていい。

 

むしゃくしゃしたのでチーズクッキーを食べた。あまり好みの味ではなかったので残念だ。最近はいろんなことがあって疲れる。2014年は今だかつてない疲れる年だ。もう9月の時点でおなかいっぱいだ。