1年ぶりに晴れた

ここ最近は、1年ぶりに爽快な毎日が続いている。もちろん多少、気分の上下はあるけれど、こんなに晴れやかな気持ちが続くのは本当に久しぶりだ。
1年ぶり、というのは全く大げさではない。
どうしてこうなったかというと、新しい考え方が2つ芽生えたからだ。


1つめ
この世の万物は曖昧なものであり、絶対的な幸福や不幸は存在しない。

去年の夏の終わりに心療内科へ通い始めて、自分の脳や精神がいかに適当かつ曖昧なのかを知った。薬一錠で調子が変る。チョロいモンだぜ。
そんな適当な脳と精神で、この世を認識しているわけだけど、はたしてそれはどれほど確かなものなのか。

自分や目の前にある物が確かに存在することの証明はなんだろうか。見える、聞こえる、触れる、それらはそんなに信用できるか?  そこに絶対はあるのか?
わたしは難しいことを考えるのは得意でもなければ好きでもないので、自分を含めた万物とはヒジョーに曖昧なものだと思うことにした。

そうすると、そんな曖昧なものから作られた状況によって得た幸福や不幸とはなんだろうか、と疑問が湧いた。
幸福や不幸とは、自分の置かれた状況に名前をつけただけである。そして、その名前をつけたのは自分である。名前を剥ぎ取ればただの事実だ。それだけ。


2つめ
気分が落ち込んだときは、落ち込まなければいけない理由を考える。

世の中はヒジョーに曖昧なものだと分かった。そんな曖昧なものから生まれた状況に自分で名前をつけて、惨めだとか寂しいとか哀れだ不幸だ妬ましいとか、そんな風に1人でヘドロを抱えて啜るようなことは、くだらなく、エネルギーを消耗するだけでもったいない。どうせならプラスにとらえてエネルギーに変換したい。

わたしには、考えこむと落ち込むような要素がいくつかあるのは事実だ。
でも、その事実によって、落ち込まなければならない理由はない。事実は事実としてあるだけだ。
落ち込むのが悪いと言いたいわけではない。以前のわたしがそうだったように、一人で悲しみに向き合う時間が必要なときもある。ただ、その時間があまりにも長いともったいないという話。


具体的にこういうことを考えたのはいつかというのは忘れたけれど、つらいなあつらいなあと袖やら枕やら床やらを濡らすうち、頭が真っ白あるいは真っ黒にる瞬間があった。そんなとき、般若心経の一部が頭の中の引き出しからポロリと出てきた瞬間があったんだと思う。
わたしは宗教に属していないけれど、色即是空という言葉の意味を噛んだとき心が軽くなった。意味を全く知らないわけではなかったけれど、身をもって知るのとはまた別だった。

まあ悟ったわけではないので煩悩はつきない。捨てられん!  わたしになくてはならないものなので煩悩は大事です。

わたしはこの1年、とても辛い(つらいじゃなくて、からい)思いをし続けた。
痛みをかわす方法を得たということがわたしはとても嬉しい。
わたしは周りに迷惑をかけない範囲で自分に都合良く考えていく。

この般若心経の現代語訳が好きだ。
曲もすごく好きだ。
ニコニコニュース  |  http://news.nicovideo.jp/watch/nw955897
初めてスマホで投稿する。
スマホだと推敲しにくいのだけれど、パソコンをつけると暑くてしょーがないのでつけない。